札幌の魚住です。
私が「多読」に出会ってから早いもので15年くらいになりますが、教室ではほぼ同時期から他のメソッドをメインにしているため、「多読」はサブ的な形で取り入れています。そのせいか、「多読」という言葉を使う度にどうも腰が引けてしまっていました。
「多読と言うほどのことはしていないし…」
「そんなにたくさん読んでもらっていないし…」
仲間の先生にもうるさがれるくらい、ついつい口癖のように言っていました。邁進する先生達の中にあって、「多読」をしていると大きな声で言う自信がなかったのです。
そこにコロナ禍で、世の中がどんどんオンラインのメリットを有効に使っていく中、私は疲労感が増してオンラインから離れ気味になり、何となく取り残されていくような孤独感を味わっていました。
体調不良とも闘い、精神的にも焦りながら、自分がさらに「多読」から離れていくのを感じていました。
今は対面で授業ができるようになり、やっと紙の本を読んでもらえるようになって、心底ほっとしています。
ただでさえ中途半端、そしてコロナ禍の日々。
「多読」って何なんだろう?と考えてしまっていました。
今これを読んでくださっている皆さんの中にも、もしかしたら私と同じような感覚をお持ちの方が3人くらいはいるかもしれない(笑)と想像して、今これを書いています。
私の自信
「自信がなかった」と書きましたが、私の場合、それは英語そのものについても同じでした。
中学校で初めて英語を知り、海外経験もなく、習った英語しか知らない私がなぜか英語教室を始めて10年以上も経った頃のことです。始めた当時2、3歳だった子ども達が残ってくれて中学生になろうとしていました。教わった英語は教えられる。でも、それは私がやりたかったことと何か違う。ネイティブの胸を借りれば英語で会話ができるのに、自分は子ども達に胸を貸せる自信がない。なぜ?
そして、やっと、「易しい英語」の意味に気づきました。
易しい英語は、教科書で習う英語じゃない!
英語圏の小さな子どもが触れる英語だ!
という、当っっったり前のことに。
そのタイミングで偶然「多読」と出会い、衝動的に本を買い集め始めました。もともと読書も苦手で大人の本が読めないので(笑)、子どもが読む本にはまったく抵抗無し!超易しい英語の本を読みまくりました。そして、読むほどに、私にはこれが足りなかったんだ!という喜びが押し寄せてきました。
今では、自宅の一室である教室は壁2面半が本棚で埋まり、カラフルな背表紙が日常の景色になっています。
・習った英語しか知らない。
・英語を使う機会がない。
・かと言って勉強もしない。
・海外経験がない。
・読書しない。
・洋画観ない。
・洋楽聴かない。
の七拍子(?)揃った、じゃあどうして英語やってるの?な私にとって「多読」との出会いは、英語のリアルな日常を、幼児に戻って体感することでした。リハビリに時間はかかりましたが、英語が足元からふんわりとたっぷり溜まっていきました。脳にしかなかった英語と、足下から溜まっていった英語が繋がって、格段に落ち着きがよくなりました。子ども達との英語でのインタラクションも楽に、そして楽しくなりました。
そう、多読は、もともと私自身の自信のためでした。
子ども達の自信
子ども達にとっては、私のような「リハビリ」をしなくていいように、本を読んだりCDを聴いたりすることが最初から日常のごく普通のことになればいいなと思っています。導入時は、とにかくたくさん読んでもらおうとはりきったこともありますが、試行錯誤の末、サブメソッドにすると決めました。
読書を楽しめない子どもだった私は、友達が貸してくれた本を読んだフリをして返していました。
学校の感想文も大キライでした。
図書館に行くと、ちょっとお腹が痛くなりました。
なので、私は、本を強制的に借りて帰ってもらうことも、優等生的な感想を書かせることも、一切しません。
小学生のうちはORTと易しい絵本の読み聞かせと、あれこれツッコんだり脱線したりのおしゃべりのみ。
小6か中1になると、読み聞かせしたORTのstageを好きなだけ戻って自力読みを始めてもらいますが、1回のレッスンでは1〜2冊読んでちょっとおしゃべりして記録するくらいの時間しか取っていませんし、宿題にもしていません。
一度読み聞かせしてもらったことのある本は気持ちが楽なようで、懐かしさと、自分で読んでいる満足感と、2回目だからこそ気づく発見とで、子ども達は楽そうに、楽しそうに読んでくれます。いろいろ寄り道をしながらまたORTに戻り、やがて読み聞かせしてもらったstageを超えていく。それがちょっと嬉しいようです。
中高生にも同じノリでやっているので、そこそこ語数の多いペーパーバックを読み始める子はごく稀で、ほとんどの子はネイティブの小学校低学年向けレベル止まりです。絵本にはまる高校生も多いです。
たくさん読まなければならない、こうしなければならない、というやり方が、子ども達の自信の芽を摘んでしまったら、本末転倒。本格的な「多読」教室の生徒さん達のようなすごい子はいないけれど、「読みたくない」という声も聞いたことがありません。ハードルがメチャメチャ低いので、逆に悩み無しなのかもしれませんが(笑)
がんばらない多読は、みんながんばらなくていい
私の自信
子ども達の自信
見える自信
見えない自信
全部、大事。
こちらのブログ名は「しあわせな読み聞かせ、がんばらない多読」ですが、うちの場合はそもそも「誰も何もがんばっていない多読」です。
私もがんばらない。
子ども達もがんばらない。
多読と言うほどのことはしていない。
そんなにたくさん読んでもらっていない。
本当に「ない、ない」だらけですが、そこに本棚があればいい。
ゆるゆるなライブラリアンがいればいい。
子ども達には、カラフルな本棚の記憶と、私が掴めなかった「見えない自信」をおみやげに、教室を巣立って行ってもらえればそれでいい、そう思っています。
これも、「多読」って呼んでいいですか?
「多読」って何なんでしょうね。
さてと、今日も、ゆるゆるとライブラリアンやってきます ^^
文 : Kumiko Uozumi(アッポ)
北海道 札幌
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